日日是好日 単なる変わった26歳の頭の中。

思ったことをありのままに書いていこうと思います

誰のために生きるのか?〜聖書と自分を重ね合わせ考える時間を持ってみよう〜

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琵琶湖リトリートセンターにて


母校のリトリートに講師として参加させていただいた。26歳・・自分がこれまで立ち向かった壁はそこそこあるけど、人それぞれの経験が素晴らしいものだと思う。「わたしなんて」って感じることもある。でも「わたしなんて」って言ってられない。この貴重なお時間を皆とともに過ごせたことはとてもありがたき幸せ。いかにこの時間を有効なものにできるのか、その手伝いができるならしたいと思った。

日本の人口は1億2700万人。その中の1人。私がちょっとしたアクションを起こすとそれはどんだけのエネルギーとなり、血となり、汗となり、形になるはず。

今日は47人の前でリトリート講師として「前を向く人に伴走を」としてお話しさせてもらった。なんのために自分は生かされているのか?人を支えることで自分の価値を見出すことができるとも言える。

わたしが講演して少しでも「やってみよう」って意欲がある子が出てきてアクションに移したとする。それはまた1億2700万人のエネルギーに+1につながるのだと思う。

人は生きているだけで、価値があるものだと思うし、さらにそれで+1したエネルギーを生み出すことができたら日本、社会、はとっても良くなっていくはずだと思う。

こうした活動を続けることは主軸があってこそ。「だれかのために何かをしたい」やはりこれは曲げない信念として貫きたい。地元和歌山であっても、東京であっても。今日はリトリートでわたしが話した内容をもとにディスカッションを行ったが、わたしも自分の「大切」にすることを見つけられた。

親の影響だけではなく、自分が見てきたもの(東北の姿)、得た経験(東京での生活)は紛れもなく、自分を作っている。無限に広がる可能性を信じて。自分と相手を思いあって。

<聖書 ヨハネによる福音書15章4節〜9節>

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられ焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

 

こちらは、今日は学んだ聖書の箇所。わたし=大切なものごと。そう捉えてもう一度読んでみるととてもしっくりくる。

 

さて今晩は、学生の礼拝も聞くことができた。自分の弱みを人に伝えることで自分を認められるようになったこと。言葉を発せない弱者の声をないがしろにされる現状を見て「怒り」を感じ、伝える役割を担いたいということ。いずれの学生も、負の原体験をプラスに変えていく、というお話の仕方をしている印象を受けた。

負の原体験が大事だ、だから弱者にも優しくできる、ということを言葉にしてしまうと、「では自分の負の原体験は何か?」という考え方になってしまうと思う。何か?って考えると頭がパンク・・・。

わたしも恵まれた環境で育ってきた方だと思う。ちょっと親に何か言われたからキレた、とか、田舎で育ったから恥ずかしい、とか、あんまりないし。それに対して不満を爆発させたこともない。

、、となると、さて負の原体験は必要なのか?という議論になると思う。負の原体験がなくても人は自分の大切にしたいものを見つけることができるのか?衝撃的な体験がないと大切にしたいものが見つからないのか?

いや、違う。衝撃的な体験がなくとも、それをその時どう捉えるのか?自分は何を感じているのか?を持つことが必要なんじゃないか。それが後になって「あーあの時こう思ったなー」とか「こう思ったのはこうゆう理由があるからなんだなー」と繋げられるか、だと思う。

つまり、「一人一人の経験が特別であり、重要なのはやはり物事をつなぎ合わせること」だと自己解決したのでした。