日日是好日 単なる変わった26歳の頭の中。

思ったことをありのままに書いていこうと思います

27歳になった〜心境の変化は?〜

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27歳になった。心境の変化は特別ないけどフリーランスになったことが一番の大きな変化。なんだかんだ、これまでやりたいことをやってきたから、仕事ってそうゆうもんだって思ってたけど。やりたくないことも回ってくるし、それを地道にやって行くことが自分の次のやりたいことにつながるんだって思うと、一生懸命やろうって思う。

2つの新しいチームに入って活動して、3つの新しい勉強会?みたいなものに入って環境は変化した。だから入ってくる情報も変わったんだけど。

まだ福島の自分がやってた仕事が気になる。いいふうに転がっても、悪い方に転がっても。福島での、自分の存在価値ってなんだったんだろうか、と考えるわけで。

福島を離れても繋がってくれている人がいることは本当に嬉しい。SNS上で何しているってわかるし。でもわからない人もいて。それでもきっと頑張っているんだろうな、って思うから次会うのが楽しみになったり。

 まずは目の前の仕事を精一杯やろう。

wifiの大事さを知ったの巻

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静岡のマグロの尾

wifiってなんでそんなに広めなきゃならんの?って思ってました。

駅で勝手に繋がってしまうwifiは繋がってしまっても遅くて面倒やなって。でも自分がポケットwifi持ってたからやし、速度制限かかったら1000円払えば5Gやからいいやーみたいに軽く考えてました。

でもさ、ポケットwifiがなくなって、お金がなくなったら、wifiスポットめっちゃありがたい!通信料にお金払いたいって思わんのよな。(ケチやけど)

通信料って、最低限の生活を送る上で必要になってきているお金なんやろうと思う。

私は昔から光熱費を払うんがすっごく嫌やった。光熱費=ガス・水道・電気。これって最低限の生活をする時に必要じゃない!?

 

憲法第25条=

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

なっ、ガス・水道・電気って、これがないと今日本人は生きていけないやん。そしてそれに追加して通信費も含まれるんじゃなかろうか!まだベーシックインカムは実現されないのだろうか。

ベーシックインカムが実施される時、「働くってなに」って問題が出てくると思う。(自分の中の備忘録・・)

丁寧に仕事をする。

これまでの仕事を振り返った時、あー取りこぼしているなーってことがある。自分ではどんなに丁寧にやってても。

じゃあ仕事が丁寧な人ってなんやろう?と。責任感が強いとか、神経質だとか、そんな性質で言えることではないような感じ。

手を広げすぎず、身の丈にあったことをするんやと思う。

丁寧な暮らし。ってゆうけど、それも同じで身の丈にあった暮らし。をするんやと思う。

ちょっと背伸びしていいものをもったりすると、身の丈に合わなくて不恰好やったりする。

わたしの身に付けるものは身の丈に合ったものをつけていたい。だからブランドとかもう、やめよう。あるべき姿を取り戻そう。

ハロプロの最近を見ながら、twiceを想う。

私は女性アイドルが大好き!特にハロー!プロジェクトモーニング娘。のデビュー当時から見続けている。

最近モーニング娘。が変化しており、これをどう受け止めようかと真剣に悩んでいる。

モーニング娘。の変化は、①圧倒的センターの存在を置かなくなったこと②つんくプロデュース曲の減少、ライブのプロデュースに関わらなくなったこと③平成とともにアイドル文化の終焉。とゆう要因があると思っている。

それぞれについて考えていきたい。

①圧倒的センターの存在を置かなくなったこと

2011年1月に神の子のように現れた鞘師里保の存在がある。彼女は2015年12月に卒業。怒涛の5年間をモーニング娘。ハロプロのエースとして活動してきた。彼女がいたから今のモーニング娘。メンバーがいると言って過言ではないと思う。石田亜佑美尾形春水森戸知沙希は、それぞれが鞘師里保のダンスや歌にインスパイヤーされ活動してきたメンバーであろう。他ハロプロメンバーには多数鞘師里保の名を憧れの先輩にあげる人はいて、2011年〜5年間の圧倒的な実力があったと言える。彼女が卒業して以来、モーニング娘。には、エースと言われる存在を置くことができなくなっているように思える。それは彼女を超える実力の持ち主が現れないからなのか、もしくは、彼女が卒業に至るまでに背負ってきたセンターへの重圧を他のメンバーが受けることはできないのか。いずれにしろ、今のハロプロには圧倒的センターがいない。

しかしながら、鞘師が去った今も見どころはたくさんある。特に曲の面白みが出てきていて、「なんだこの歌詞!?」ってゆうようなことを普通に歌って踊っている彼女らの表情は面白い。特に、佐藤優樹小田さくら譜久村聖生田衣梨奈牧野真莉愛が見せる表情は、キュンとする部分が多い。ずっと見ていたい、他の表情も見せて欲しいと画面にかぶりついてしまうのも今の娘。のいいところだと思う。

つんくプロデュース曲の減少とライブプロデュースへの関与について

児玉雨子さんの作詞作曲は、カントリー娘。の「愛おしくってごめんね」「恋泥棒」とかで、あのタンポポを思い起こさせるような可愛さに、ハマっちゃって抜け出せなくて次の曲を欲しがっちゃうし。中島卓偉さんの作詞作曲は、アンジュルムの「大器晩成」で大成功をおさめて、彼女たちのブランド(かっこいい!最強!激しい!フォー)みたいなものを作り込むまでに至っていて、つんく一色から変化してきているハロプロは面白みがあると思う。となると、ハロプロらしさ・・・ってなに?(ちょいダサ?ダサかっこいい?)って疑問をだれかに問いたくなってきた。

③平成とともにアイドル文化の終焉について

2019年5月1日〜新年号になるが、「平成」は本当にモーニング娘。の時代だったと思う。AKB48など様々なアイドルができたのは間違いない事実だが、モーニング娘。があったから、今生きてこれた人はたくさんいると思う。特に心が弱ったときに、ひたむきに頑張り続けるアイドルの姿、それだけでなく人間だから恋愛も喧嘩も飲酒もしちゃう人間らしいアイドルの姿、結婚しても芸能界を騒がせ続ける面倒な女の性をしっかりと持っているアイドルの姿。なんかそれら全て含めて、モーニング娘。が「平成」をしっかりと彩ってきたように思う。次の年号になっても、モーニング娘。はもちろんあり続けて欲しいと願っているが、「平成」の時を支え続けたアイドルと言っても過言ではないと思う。

さて、そんな私は今twiceにどハマり中で。なかなか抜け出せない。モーニング娘。の初期を見ているようで。sixteenがアサヤンで、デビューしてからの2年足らずで大ブレイク!twiceのメンバーはもちろん好きだがJYPは、twiceを続けるために、次の手を打ってくるのではないかなとちょっと期待をしつつ見ている。モーニング娘。という文化になりつつあるもののように、またtwiceも文化になるといいなと願っています。

デザインする楽しみと苦悩

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会津のそばと天ぷら

今日は仙台。寒い。

打合せをしていると、「こうやって行ったらいいのになー」「こんなシートがあれば一発で理解できるのになー」とか理想はめっちゃある。だから企画書やマニュアルを作ってみんなが理解できるものが必要やな、って思うし。それがないと逆に不安すぎる。

何を見たらええんや!?って。

企画書の場合は、自分で文章にしてみたり、デザインにしてみたら、なんかダサくて、あーやっぱり自分はまだまだセンスを磨かないといけないな。と痛感。センスの磨き方ってどうやったらいいんだろう。

私の好きなものってなると最近は「TWICE」って固まってしまって新しいものを取り入れようとしないからいけないところ。他の現場で働いている人たちは何にハマって何にこだわっているんだろう。

マニュアルの場合は、まとめるのがめんどくさい。誰かやってくれたらいいのにって思うからみんなまとめないんよな。だから仕事があるわけや。マニュアルは必須やわ。。って今日は改めて思った。

 

最悪の状態を想像する〜人口減少社会の未来学〜

 

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琵琶湖リトリートセンターにて

今日から読み始めた本「人口減少社会の未来学」内田樹などによる論考集。

タイトルに惹かれ、読み始めることにした。人口減少して行く日本って悲観的に捉えがちだけど本当にそうなの?実は競争しなくていいし混雑も少なくなるしゆったり過ごせるから人口は減少するってゆうのは人間らしく生活をしていく上ではラッキーなんじゃね?

上富田の人口は、様々な施策や周辺環境の変化によって、今は増加している。ただ減少していくことは明らかだろう。だって人間が減っていくんだもん。減っていった先は上富田がなくなるんだろうか?

そうゆうことだってあるかもしれない。現に、過疎地域において小学校が閉鎖、近隣小学校に統合、地域は崩壊、合併がいたるところで起こっている。それはただ自分の地元がそんなになるだなんて思ってないから「こわい」。その先を考えなければならない!人口減少→過疎→合併→・・・?!え、この先を考えられなくなって思考停止している!

やばい!!

合併して、上富田て名前がなくなったら、わたしは悲しいんだろうか?泣いちゃうんだろうか?だれが悲しむのだろうか?誰が苦しくなって行くのだろうか?

合併したことによるマイナス面はこんなことだったっけ?(そういや、わたしの大学の卒論は合併問題に関することだった・・)地元のお祭りに参加する人がいなくなる、共通の話題が減る、地域内の会話を取りづらくなる、誰が隣に住んでいてもどうでもよくなる、仕事や学校だけで顔を合わせて必要なときにだけ会話をするようになる、地元の良さって学校で教えてもらうことが良さだと理解しオリジナリティに欠ける、どこでも同じ答えになってくる。

うむー。合併しても、地域が崩壊しても、上富田の良さを語れることで形式ではなく、地域を伝承して行くことができるんではないか。地域の伝承。

最近わたしは地方が都会化してきているように思う。都会で売れるようなデザインで商品を彩り、都会で売れるようなネーミングにし、都会で売れるような金額設定にする。地方は東京化したいのか?!

地方で売っている商品は誰のための商品なのか。誰のためのお金儲けなのか。ビジネスマンも誰のために働いているのか、を考えてもいいように思う。家族のために働くのもいい。でも、もっと広い視点で、見るのもいいと思う。誰のためか、地域のためだって答えるようなサラリーマンが増えてもいいんじゃないのかな。

 

誰のために生きるのか?〜聖書と自分を重ね合わせ考える時間を持ってみよう〜

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琵琶湖リトリートセンターにて


母校のリトリートに講師として参加させていただいた。26歳・・自分がこれまで立ち向かった壁はそこそこあるけど、人それぞれの経験が素晴らしいものだと思う。「わたしなんて」って感じることもある。でも「わたしなんて」って言ってられない。この貴重なお時間を皆とともに過ごせたことはとてもありがたき幸せ。いかにこの時間を有効なものにできるのか、その手伝いができるならしたいと思った。

日本の人口は1億2700万人。その中の1人。私がちょっとしたアクションを起こすとそれはどんだけのエネルギーとなり、血となり、汗となり、形になるはず。

今日は47人の前でリトリート講師として「前を向く人に伴走を」としてお話しさせてもらった。なんのために自分は生かされているのか?人を支えることで自分の価値を見出すことができるとも言える。

わたしが講演して少しでも「やってみよう」って意欲がある子が出てきてアクションに移したとする。それはまた1億2700万人のエネルギーに+1につながるのだと思う。

人は生きているだけで、価値があるものだと思うし、さらにそれで+1したエネルギーを生み出すことができたら日本、社会、はとっても良くなっていくはずだと思う。

こうした活動を続けることは主軸があってこそ。「だれかのために何かをしたい」やはりこれは曲げない信念として貫きたい。地元和歌山であっても、東京であっても。今日はリトリートでわたしが話した内容をもとにディスカッションを行ったが、わたしも自分の「大切」にすることを見つけられた。

親の影響だけではなく、自分が見てきたもの(東北の姿)、得た経験(東京での生活)は紛れもなく、自分を作っている。無限に広がる可能性を信じて。自分と相手を思いあって。

<聖書 ヨハネによる福音書15章4節〜9節>

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられ焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

 

こちらは、今日は学んだ聖書の箇所。わたし=大切なものごと。そう捉えてもう一度読んでみるととてもしっくりくる。

 

さて今晩は、学生の礼拝も聞くことができた。自分の弱みを人に伝えることで自分を認められるようになったこと。言葉を発せない弱者の声をないがしろにされる現状を見て「怒り」を感じ、伝える役割を担いたいということ。いずれの学生も、負の原体験をプラスに変えていく、というお話の仕方をしている印象を受けた。

負の原体験が大事だ、だから弱者にも優しくできる、ということを言葉にしてしまうと、「では自分の負の原体験は何か?」という考え方になってしまうと思う。何か?って考えると頭がパンク・・・。

わたしも恵まれた環境で育ってきた方だと思う。ちょっと親に何か言われたからキレた、とか、田舎で育ったから恥ずかしい、とか、あんまりないし。それに対して不満を爆発させたこともない。

、、となると、さて負の原体験は必要なのか?という議論になると思う。負の原体験がなくても人は自分の大切にしたいものを見つけることができるのか?衝撃的な体験がないと大切にしたいものが見つからないのか?

いや、違う。衝撃的な体験がなくとも、それをその時どう捉えるのか?自分は何を感じているのか?を持つことが必要なんじゃないか。それが後になって「あーあの時こう思ったなー」とか「こう思ったのはこうゆう理由があるからなんだなー」と繋げられるか、だと思う。

つまり、「一人一人の経験が特別であり、重要なのはやはり物事をつなぎ合わせること」だと自己解決したのでした。